大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和58年(オ)114号 判決

上告人

亡吉村宣龍遺言執行者

二村満

被上告人

滋賀県

右代表者知事

武村正義

被上告人補助参加人

藤宮和子

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人の上告理由について

原審の確定した事実関係及び本件記録によれば、「滋賀県学校職員退職手当支給条例」(昭和二八年一〇月五日滋賀県条例第二五号)二条、「滋賀県職員退職手当条例」(昭和二八年一〇月五日滋賀県条例第二四号)二条、一一条は、被上告人の職員に関する死亡退職手当の支給、受給権者の範囲及び順位を定めているのであるが、右規定によると、死亡退職手当は遺族に支給するものとし、支給を受ける遺族のうちの第一順位者は配偶者(届出をしていないが、職員の死亡当時事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)であつて、配偶者があるときは他の遺族は全く支給を受けないこと、当該職員の死亡当時主としてその収入によつて生計を維持していたか否かにより順位に差異を生ずること、直系血族間では孫より父母が先順位となり、嫡出子と非嫡出子が平等に扱われ、父母や祖父母については養方が実方に優先するものとされていることなど、受給権者の範囲及び順位につき民法の規定する相続人の順位決定の原則とは著しく異なつた定め方がされていることが明らかであるから、右規定は、専ら職員の収入に依拠していた遺族の生活保障を目的とし、民法とは別の立場で受給権者を定めたもので、受給権者たる遺族は、相続人としてではなく、右の規定により直接死亡退職手当を自己固有の権利として取得するものと解するのが相当である(最高裁昭和五四年(オ)第一二九八号同五五年一一月二七日第一小法廷判決・民集三四巻六号八一五頁参照)。そうすると、被上告人の職員であつた亡吉村宣龍の死亡退職手当の受給権は同人の相続財産に属さず、遺贈の対象とするに由ないものというべきである。これと同趣旨の原審の判断は正当として是認すべきであり、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立つて原判決を論難するものであつて、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(宮﨑梧一 木下忠良 鹽野宜慶 大橋進 牧圭次)

上告人の上告理由

一、最高裁昭和五四年(オ)第一二九八号同五五年一一月二七日判決(以下、最判という。)は、一部変更されるべきである。

1、即ち最判の理由によれば「死亡退職金の受給権は相続財産に属さない」と結語するが、その根拠として、「死亡退職金規定は専ら職員の収入に依拠していた遺族の生活保障を目的とする」点を挙げている。

しかしながら、最判の事案は両当事者間の事情をいえば、上告人が相続財産管理人であることから分るように相続人不存在の場合であり、仮に上告人が勝訴しておれば、その金員を亡辻元敏子の債権者らに配当するか、あるいは特別縁故者に分配する一方、被上告人が日本貿易振興会法に設立された特殊法人であることから、いわば公的機関であるというケースである。

最判の場合、簡単に言えば死亡退職金を個人に賦与するのか公的機関に賦与するのかという事案であり、公的な比較衡量からいえば当然公的機関に分配するのが、妥当な事案である。

2、一方、本件事案は、そもそも遺族の生活保障をする必要のない事案(尚、最判の場合、遺族の生活保障を根拠とするなら、その事案でも被扶養者は存在しないのだから、結果的には不合理であつた。

おそらく、最判は前述の比較衡量が先に立ち、その論理を構成したのであろうと思う)であり、更に重要なことは亡吉村宣龍(以下、亡宣龍という。)が遺言をしているという事案であり、最判のケースが適合しない場合である。

二、本件には遺言が存在する。

1、公序良俗あるいは強行規定に反しないかぎり、何人も自己の財産を自由に処分し得る。

その一つの現れが、遺言であり遺言の弊害は遺留分によつて是正されるべきである。

問題なのは退職金が、個人が自由に処分しえる財産(本件の場合相続財産)か否かであるが、その法的性質はいろいろ議論があるところであるが、少くとも賃金の後払的性質が存在することはどの説に依拠しても変りがないところであろうと考える。

退職金は生前において刻々と潜在的に発生しているのであつて、それが退職とか死亡とかによつて、顕在化されるものである。

退職金は遺族年金とは異なる。

もし、退職金を相続財産と解さないのなら左の不都合さを生ずる。

(イ) 民間の場合と公務員との間で異なる扱いを受ける。

同じ勤労者でありながら相異を生ずるのは不都合である。

(ロ) もし、生前のうちに退職金を受領しておればこれをどのように処分しても被相続人の自由であるが、これがたまたま故人となつたが故に突如として相続財産に含まれないと解するのは不妥当である。

2、条例と遺言について

そもそも、条例が退職金の順位を定めているのは、遺言などがない場合誰がどのように相続するかの問題につき、紛議が生ずる為、それを未然に防ぐ為に範囲・順位を決めているのであつて、生活保障説に立論している為ではない。

特に本件の如く、次に述べる被相続人と配偶者が、事実上の離婚にあるような場合、条例を形式的に解して原審の如く認定するのは不自然である。

その不自然さをぬぐい去る為、遺言の制度があるのである。

仮に生活保障というのなら、別個の例えば公的保障制度にその役割りをまかせるべきであつて、故人の財産をあてにすべきでない。

仮に条例を形式的に適用していくと、妻が公務員で死亡した場合、しかも夫が有職者であり経済的にもうるおつている場合でも、その夫に退職金が支払われることになるが、これはいかにも不合理であり生活保障説の矛盾である。

要するに、本件条例は遺言のない場合を想定しているのであつて、生活保障説に立論しているが故の立法ではないのである。

3、本件遺言に至つた事情

亡宣龍は参加人和子の事実上の養子となつた。

生流環境として、男性としての亡宣龍の立場は弱く苦しい立場にあつた。

教員という職種から分るように、亡宣龍は性格が生帳面であり、かつおとなしいものであつた。

一方、参加人は精神病を患らつていることから分るように、性格は異常であつた。

それのみか、昭和五一年五月には参加人和子は一方的に実家へ帰り、亡宣龍を遺棄した。

亡宣龍は当時(昭和五一年五月二日発病)頸指ヘルニアに罹患していた。

右疾患は激痛を伴うものであつて、妻たる参加人和子は亡宣龍を看病する立場にありながら、その性来のきままさから、亡宣龍をうとんじ、ほとんど看病をしなかつた。

それどころか、昭和五三年九月二五日には参加人和子は亡宣龍に対して、家庭裁判所へ調停の申立をしているのであつて、亡宣龍の心労は増大するばかりであつた。

そして、事実上の離婚状態が続いた。

かような事情の下、思いあまつて亡宣龍は本件遺言を残し、自殺したのであつた。

亡宣龍は参加人和子に対し、深い恨みの末の遺言であつたのである。

その遺言が生されないのは、亡宣龍にとつて、あまりに無念なことである。

三、本件は遺族の生活保障をする必要のない事案であつた。

しかし、最判も生活保障する必要のない事案でありながら、退職金を相続財産でないと解しているから、この点を論ぱしても意味がない。

却つて、最判はその根拠と結論が結びつかない。

四、(結論)

およそ企業あるいは公共団体がその従業員や職員が死亡した場合に支払う死亡退職金の法的性質は、相続財産に属するか受給権の固有の権利であり相続財産でないかは一律に決することはできないのであつて、当該企業の労働協約、就業規則あるいは条例内容からこれを考えるべきである。

要するに具体的事実に即してその法的性質を決めていく他ない。

これを、本件につきみるに、亡宣龍と参加人和子は当時別居しており事実上の離婚状態にあつた。

亡宣龍としてはもし、正式に離婚しておれば当然退職金は遺言通りに執行されていたはずである。

本件では、夫婦関係は破綻していたのであり、このような場合にも条例をそのまま適用するのは不合理である。

本件の場合は亡宣龍の生前処分(遺言)とすべきであつて、死亡によつて、自動的に条例が適用されるケースではない。

そもそも条例で死亡退職金を決めることの適否であるが、いうまでもなく、民法と条例との効力関係からいえば民法が優位に立つ。

従つて、民法の遺言規定が条例に優先するというべきである。

条例が適用されるのは前述した如く、遺言がない場合に限つて適用されるべきであつて、逆にいえば、減殺請求権の対象となるべきと考える。(注釈民法第二六巻、三六二頁)あるいは反対説は死亡退職金の扶養的性格を強調するようであるが、仮に右説に立つたとしても、本件の如く事実上の離婚状態にある場合にはもはや、反対説の立論の根拠はないのであつて、条例の適用をみるまでもない。

退職金が扶養的要素はあることは否めないとしても、これのみではないのであつて具体的妥当性をもつて解釈されるべきものと考える。

そして、本件では遺言が優先されるべきである。

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